生徒/教師とhead fake
勉強は役に立つよ、といった趣旨のエントリをちょこちょこ読んだりしています。僕も便乗*1して、最近の体験を通じて、「勉強をすること」と「勉強をさせること」について思ったことを、半分は自分の為の備忘録的な意味も込めて、書いてみます。書いてる内容は目新しい発見でもなんでもないです。
僕はバイトで家庭教師をしています。担当している中1男子は、英語が書けないし読めないという、ひどいレベルです。
そんな子に、「I'm」や「That's」といった、アポストロフィによる省略について説明した時の話です。教科書で「It's」という表現が出てきました。僕は、
「これ、見覚えないかな?ほら、数行上に"That's"ってあるよね」
と言って注意を促します。
「"That's"は"That is"の略だったよね?じゃあ、"It's"はどうなる?」
当然、即答できるものと思いました。でもなかなか答えられません。何の知識も要求されていないのに、分からないんです。
ということは、欠けてるのは知識ではないわけで、それは単に類推・抽象化する力なんではないかと。2,4,6と続いたら次は8だろうと考える力とか、犬を見て、猫を見て、同じ動物だと認識する力とか。
その時思いました。国数英社理といった具体的な、目前の問題というものは、いわゆる「head fake」*2なんだろうと。僕らがこの5科目を通じて身に付けてきたことは、それをインプット・アウトプットする時に使う何らかの思考方法なんだろうと。たとえばそれは、上の例では、類推だとか抽象化といったものです。
こうしたことを、僕の側が意識して教えてあげるようにしよう、と思いました。
また、教師という仕事*3を通して学んでいることも、同時に考えてみました。それはきっと、与件を疑い、操作する技術です。
生徒の間違いを観察し、生徒がなぜ分からないのかを考える過程で、上記での思考方法のような、インプット・アウトプットにおける前提条件を見直してみます。その前提条件を上手く追加したりいじくったりすることで、問題を解けるようにしてやる、というのが教師の仕事なのかもしれません。
経済学で比較静学というのをやります*4。それは、外生変数(与件)の変化によって、最適解がどのように変化するかを見るものです*5。これと教師の仕事って似てるんじゃないかなーと。ただ教師の場合は、最適解がどのように変化するかではなく、解を最適解になるように調節する感じなのでちょっと違うかもしれませんが。
そういう訳で、当たり前のことが当たり前じゃないと気付く機会が、こんなに頻繁にあるっていうのは、結構貴重な体験なんじゃないかな、と思いましたとさ。